この、「姑と夫の実家で同居していたときの私の闇日記」シリーズは11個の投稿にてnoteからのお引越しが完了し、同時に当時書き溜めていたものがないので終わりなのですが、今日は最終章(前編)としてその後の経緯を少し書いてこのシリーズをまとめたいと思います。
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その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11
私はその後、ルーマニア語の学校に週3回通い始め、夫の家族以外の外の世界に接触しだした。語学学校だから、授業中「はいペアでこの会話練習して」「はいグループで今日の予定発表しあって」などとコミュニケーションを強制的にとらされる。
私は慣れている人にはマシンガントークをかますが、そうでなければあまり積極的に人とコミュニケーションをとるタイプではないので、こんな風に強制的にコミュニケーションとらされるような場面でない限り、シャイな面もあるのでなかなか人と交流することがない。
そのため、この語学学校では結局1ヶ月半の1コースしか受けなかったのであるが、ロシア語話者以外の地元の人との距離も少し近くすることができたし、新しい人たちと出会うことはやはり大切な事だと実感する事ができたし、宿題に追われてみたりとなかなか良い気晴らしになった。
それでも、家の状況はむしろ悪化していった。姑と姉夫婦の仲がますます悪くなったのだ。
姉がぶんどった2階のサロンで姑は寝ており(というのも1階の我々が生活しているフロアの唯一の寝室は昔から夫の部屋であったため我々夫婦が寝ている。もう1つ小さい部屋があるのだがボロボロで物置状態。)
サロンの営業時間も姑はまるでサロンの経営者のような顔でソファに陣取っているのが姉夫婦は気に入らないらしく、早く物置状態になっている部屋を綺麗にしてそこで寝ろだの、台所で寝ればいいだの言い出してきて、
姑は姑で自転車で溢れかえっている1階部分にはあまりいたくないし、(実質問題姉が2階にあった間取りをぶんどったために容量がたらなくなりものが溢れかえっていてしょうがない)息子に嫁に不快な思いをさせるなと、嫁にあまり干渉するなと言われているしで、2階のサロンでお客さんに愚痴を言っている方がましなのである。
私はもうかれこれ1年近く、夫に別に部屋を借りよう、この家を出よう、と言い続けてきたのだが、金銭面と、ここは俺の部屋だという陣取りの面が、まだ家にる不快感より勝っていたのでなかなか腰をあげてくれなかった。
姑の居場所がないのは嫁として忍びない、と、2階部分を姉にぶんどられた今、単純にこの家は人数オーバーだと、我々が出て行かない限りこの問題は解決しないとそう説得を試みていたのだが、「僕は姉が2階の1部屋欲しいって言ったとき、こうなるって言ったのにママは姉ちゃんにその部屋あげちゃったんだ、自業自得だ。」「アメリカに嫁に行かないってもしなったとき、ママはどこに住むんだってちゃんと言ったのに聞き入れなかったのはママだ。」と意地になっていた。
しかし、居場所がなくなり、息子からも娘からも優しくしてもらえなくなった姑は(こればかりは彼らの30年以上の関係の成れ果てなので私は姑を擁護はできない。)酒を飲む量と頻度が増えてきた。
そして超絶酒癖の悪い姑はよって帰ってきては悪態をつき、泣き、息子に「私が何をしたんだ、なんであんたは私と話さないんだ」などと詰め寄り、自分の娘に電話しては「あんたがめちゃくちゃにしたんだ!この娼婦!」と叫び(姉は至って冷静に「F**k you」と言って電話を切った。)そして友達に電話しては「娘にF**k youと言われたの!息子も私と話してくれないし、居場所がないの!」と泣きつく始末だった。
嫁の私は、語学学校でネタにしたりする機会も得ていたし、今回は夫の精神が私よりもやられていることがわかったので、姑が欲しいであろう言葉をかけてみたり、姑が電話をかけた友人宅に早くいくように誘導したりと、なんで私がこんなことしなきゃいけないんだろうなーでも誰も何もケアしなかったらもっとひどくなるぞこりゃ、と思いながら面倒みていた。
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